「価値あり」

私的なこと

産地を巡る1

竹細工には、青物(青竹を採ってきてそのまま使う/生活道具が主)・白物(油抜きした白い竹を使う/クラフトが主)・黒物(染色や漆を塗る/伝統工芸品やアートが主)というジャンルがあり、訓練校では白物・黒物を課題で学びます。その頃の私は青物の産地を見たい(特に箕と行李とスイノウ)という思いが募っていて、年に数回ある長期休みを利用して竹細工の産地を旅していました。

1回目の旅は、岩手県→長野県→埼玉県。
岩手県のニギョウ箕の職人さんや移住された若手の方の仕事を拝見し、鳥越のもみじ交遊舎さんでスズ竹を使った「市場かご」と「あく通し」を数日かけて編ませて頂きました。今から思うと、事前に連絡はしていたとはいえ宿に持ち帰って編み進めるのでなんとか教えて欲しいと無理を言ったことが少し申し訳なく思います。その後、上平竹細工店さんで見学をさせて頂いてから長野県へ。須賀川竹細工振興会の田中久夫さんに根曲り竹の「すいのう」づくりを教わりました。

田中さんはおひとりで須賀川竹細工の後継者を育てながら守って来られていました。お話を伺いながら、地域に新しい産業ができ使い手も作り手も減っていったことが今に繋がっているということ、そして価格の厳しさも含め竹細工を仕事にする難しさが伝わってきました。最後に埼玉県。小川町で作られていたというスイノウ を探して県内の竹細工販売店をいくつか回った後、秩父市の新井竹細工店さんで見学とお話をさせて頂いて帰路につきました。


↑鳥越のもみじ交遊舎さんで作らせていただいた市場カゴ(左)・あく通し(右)
材料は準備していただいたもの。市場かごは底編みを行李の編み方で教えていただきました。


産地を巡る2

2回目の旅は、九州回る旅。
宮崎県の日之影竹細工資料館で2回目の見学し、鹿児島県の日置の箕の職人さんのところへ向かいます。竹細工を始めたいと思った頃、たまたま写真で見た姿のかっこよさに惹かれてから、いつか日置の箕の産地へ行きたいと思っていました。それにもかかわらず事前に連絡もしないという行き当たりばったりの旅。ご自宅へ伺った際、留守にされていたので諦めて帰ろうとした時、ちょうど帰宅されたご夫妻が事情を聞いてご自宅に招き入れてくださいました。その時に話して下さった後継者の話が今も重い言葉として残っています。

「君たちみたいに今まで何人も訪ねて来た。中には材料採りや山仕事を手伝いたい、箕を教えて欲しいという若者もいた。けれど、私は絶対にそれはできないと言って断った。この仕事は楽じゃない。少しでも仕事を教えてしまえば、やり始めてしまうかも知れない。教えないということも優しさだ。」

お話とともに見せてくれた箕は、自分の実力を試すために作ったという特別な大きさでした。これが人に作れるものなのかとただただ圧倒されました。このあと、お昼時だからと食事までいただいた上、スイカ1玉をお土産にと持たせていただくという感謝してもしきれないほど良くしていただきました。あの日のことは、全てが本当に特別です。


鹿児島県を後にして、最後に向かったのが熊本県の水俣竹細工の井上さんのところ。お仕事の合間に少し見学とお話をさせて頂きました。井上さんは、地域の方が「これと同じもの作って欲しい」と持ってこられてなんでも作れるほどの技術を持つ青物職人です。東京の展示会で井上さんのかごを拝見した旨をお伝えした時
「東京へ出す時は緊張します。道具としての使い勝手以上に美しさを求められることも多いため、いつも以上に作るときに気を使います。地域の人は、道具としての使い勝手や用が足りるかどうかを見てくれている。」というのを伺って、作り手と使い手は”必要”と”十分”がお互いに合う関係の保ち方の大切さを考えさせられました。


各地域でお仕事を見せていただいたり、お話を聞かせていただけたことは本当に感謝しかありません。貴重な時間、積み重ねてきた経験と思考に触れさせて頂けることは、当たり前のことではないのだと今なら身をもってよく分かります。
それでも温かく迎え入れて下さった方々に感謝の気持ち共に、些細なことでもいいから、いつか自分も同じようにできたらいいなと思っています。


↑鹿児島県の日置の箕。直接、購入させて頂いた際に「価値あり」と書いて渡してくれました。
作業場に大切に飾ってありますので、いらした際は是非ご覧ください。



目指す竹細工のかたち

別府に来てから1年が過ぎた頃、仲間達は進路を決め始めていました。私はというと、別府や大阪の工房の見学会に仲間と一緒に行き、素敵な工房と整った環境を前にしても進路を決められずにいました。どこか漠然と、作り手と使い手がもっと近い場所で仕事ができたらいいなとも考えていました。

そして進路を決められなかった理由の一つに、憧れる2名の職人の存在がありました。一人は、旅でも訪れた宮崎県の日之影竹細工資料館に展示されている故 廣島一夫さん。




宮崎県の廣島さんの作業場と日之影竹細工資料館。訓練校の同級生と一緒に初めて訪れた時。

廣島一夫さんは、青物職人なら誰もが憧れる存在で、その技術と人柄を記録するために資料館ができ本が出されています。初めて日之影の資料館でかごを観た時、訳もなく涙が出ました。用途に求められた必然な形がそれぞれにあり、「使う」ということを実直に形にした美しさがそこにはありました。私は、製品と本からしか廣島さんを存じていませんが、廣島さんの残された言葉が好きで、竹細工を続ける中でめげそうになった時にいつも思い出しています。

自分はただ竹と暮らしているだけ。上手下手はその人の一生懸命の中から出てくる。一生懸命やったと自分に納得出来れば、それでいいです。

「廣島一夫の仕事: 日之影の竹細工職人」稲垣尚友(著)

もう一人は大分県の湯布院にいらした故 野々下一幸さん。
野々下一幸さんを知ったのは、別府市にあるカフェ「海の見える丘アトリエ」に行った時でした。お店には所有されているかごが並んでいますが、その中にある野々下さんの亀甲編みのかごを観た時の衝撃は今でも忘れられません。竹の力強さと意思のあるかごの表情に一瞬にして惹かれ、「こんなかごを自分もつくりたい」と強く思いました。かごを観てあんなにも心が揺さぶられたのは初めてで、あのかごを観たくて静かにお店に通っていました。


↑故 野々下一幸さんの亀甲編み(引用:「海の見える丘アトリエ」https://umiatorie.exblog.jp/24888510/)

用途から生まれる静かで自然な形のかごがあり、片や力強く意志を持つかご。対極の存在への憧れが、仕事としての竹細工の方向性を決められない一つにもなっていました


戸隠へ


相変わらず進路が決まらない私は、訓練校の先輩の作業場を見学していました。

その時「長野県の戸隠竹細工で地域おこし協力隊の募集しているらしいよ。西濱さん、地元が関東だし近くていいんじゃない」という何の気なしに言ったことが、私と戸隠を繋いでくれました。のちに先輩は「そんなこと言ったかな〜」というほど、気軽に言ってくれた言葉です。

その話を聞いた時には、応募締切まで2週間と迫っていました。戸隠へは九州に来る前に竹細工を観に行ったことがありましたが、もう一度見てから決めようと訓練校が休みの土日を利用して急遽戸隠へ向かいました。

戸隠に1泊する間、竹細工を観てまわりました。空いた時間で戸隠の牧場から山を観て、訓練校に通いながら悩んだ時にドライブしていた由布岳の景色を思い出して安心したのを覚えています。そして、後に戸隠で住むことになる家の周辺を車で走った時、竹細工を使っている農家の人の姿が見えて、「ここに住めたらいいな」と心が決まり、その場で持参していた申込用紙を記入・投函して戸隠を後にします。

それから2ヶ月経たずして、戸隠へ移住しました。

なぜ他にも竹細工の産地もあるのに戸隠にしたのですか?と聞かれることがあります。いつも上手く答えられないのですが、竹細工が戸隠の暮らしの近くにあることが感じられたからだと思っています。

竹細工を作る人がいて、それを使いこなす人たちが地域にいて、竹細工の仕事が特別過ぎず一つの仕事として存在している。その当たり前が私には心地よく、しっくりきたのだと思います。